昭和43年3月18日 朝の御理解 (末永信太郎) №43-044
(テープが途中から)・・・怪我の・・・・・・・・・・・で頂けば、おかげが受けられるということにもなるのですね、この御教えをひっくり返しますと。慢心は大怪我の元というのは、おかげを落とすぞということです。ね。慢心をしては、おかげは受けられんというのじゃなくてからね、もちろん、おかげも受けられませんが、頂いておるおかげでも落としてしまぞということ。
ですから、その慢心が大怪我の元と仰るのですから、その慢心とは、大よそ反対な心。ね。そういう心を使わせて頂くということは、ね、おかげが受けられるということになるでしょうが。ですから、その大怪我の元になるといったような意味ではなくて、あの、おかげを頂かれる心を養うて行く意味で、この御教えを頂かにゃいけんと思うですね。
慢心の中にも色々ございますね。自慢、自慢をする。ね。傲慢である。ね。怠慢である。まあ、色々ありますね、満が付く字が、ことが色々ありますけども、まあ、今日はその三つぐらいに絞ってみましょう。ね。自慢をする。傲慢である。ところがです、お互い人間の心の中にはね、その、俗にも申しますように、その、自慢心と(かさけ)のないものはないと言われるくらいに、お互いの心の中には自慢心が潜んでおる。言うなら、誰にでもあるということ。ね。子供が少し(しょく)出来ると、ね、それを、まあ、自慢しよるつもりじゃないけれども、やはり自慢しよる。ね。
はあ、家の子供が親孝行してくれますという、まあ、それは本当にそうであろうけれども、それを自慢らしゅう、そのお話をする。確かに、人間の心の中には、この自慢をする心が誰の心にでもあるようです。ね。ですから、そういうような心は、そのおかげの頂けない心であり、また、頂いておるおかげでも落とす心なのですから、そういう人間の心の中に誰しもあるところの、この自慢の心。自慢する心。そういうような心を、私どもが取り除かせてもらわにゃいけん。
同時に、傲慢であるということ。これはもう、本当に(はなもちなが?)ないですね。態度がいわゆる大着なのである。ね。これではですね、いかに、私はあの、まあ、信心を致しても、それこそ、良いおかげには合われないと思うですね。傲慢である。ね。態度が大着である。ね。あれは、傲慢な奴だとか申します。
どうでしょうか、皆さんの心の中にですね、ね。おかげの頂きにくい心。いわゆる、自慢をする心。自分の心の中に、自分の気付かん中にある、その傲慢さ。ね。いわゆる、大着な心、わがままな心を教祖の神様は、実意丁寧神信心と仰っておられます。ね。実意丁寧神信心。
ですから、もう私どもの、その、この生き方。ね。もう、毎日毎日の、この、生き調子の中にです、絶えずこのことを心掛けとかにゃいけません。ね。もう、お道の信心の生命のように言われる、その実意丁寧神信心。教祖の神様の御信者態度というものは、もう、どこを見ましても、あの金光大神の中のどこを見ましてもです、ね、そういう慢心毛とか、ね、いわゆる、その自慢をなさるとか、傲慢でお在りになるというところが、もう、本当にもう、影ほども見られない。
いつも、その、これで済んだとは思いませんというような内容だからでしょうね。いつも、いわゆる、平身低頭しておられる。ね。いつも、辞を低うしておられる。私どもが神習わせて頂かなければならないこと。私は最近、四時の御祈念がなされるようになりまして、この控えに出てまいります。10分か20分ぐらい前に出て参ります。ほれで一番初めに、金光様の、三代金光様のお写真が後ろにお祭りしてございますから、三代金光様に、ね、お願いをさせて頂く、御祈念をさせて頂く。
今までは、昼、お食事に下がる、昼控えておる。ただ、ご挨拶だけはしておりましたけれども、金光様にお願いをするというようなことはしなかった、金光様( )。ね。もう、私どもの何と言うても、その、素晴らしい一つの信心のイメージとでも申しましょうか、ものを与えて下さったのは、やはり、三代金光様。14のお年から、ね、84歳になられるまで70年間。こうやって、御結界にお座りし抜かれた方ですもんね。信者氏子の取次助けられることは、もう言うに及ばず、世界真の平和を祈りに祈り抜かれた。
これは、あの戦争中でもやっぱそうであった。どうぞ、日本が勝ちますようにというようなお祈りはなさらなかった。やはり、世界真の平和を祈り抜かれた。世界真総氏子の願いをし続けられた。それが、70年間。ね。だるまさんは壁に向かって、7年間、座っておったと言うのですけれども。ね。それでも、大変なことだったでしょうけれども、70年間。口でこそ70年間だけどもね、そこで、これはまあ、私だけではない、皆が三代金光様の御内容を頂きたい、御内容を頂きたいと、こう言うわけなんです。
私もそれを心から、この頃、思わせて頂くようになった。ね。朝寝どもしといてから、金光様の御内容を頂きたいと言うて、机の前でいわば勉強したぐらいなことで、金光様の御内容がわかるはずがない。そう私は言いながら、私自身もやっぱり、同じことを今まで繰り返しておった。
3時50分にお広前にご出仕になる。そして、四時の御祈念をお仕えになる。そのほんの形の真似事が出けるようになった。おかげで金光様のそのお写真に向かって、どうぞ金光様、貴方のの御内容を頂かせて下さい、と。ね。真似事だけでもさせて下さい。そして、その御内容にもどうぞ触れさせて下さい。
私どもが見てきた限り、知っておる限り、聞かせて頂いておることの限り、ね。そのようなことをです、私の信心の上にも、どうぞ頂かせて下さい、ということを願わせて頂きよりますとですね、けっきょく金光様の御信心はね、もう、それこそ、もう、あからさまにも慢心といったようなところが、もう、さらさらに感じられないということ。もう、それこそ、あからさまにも、そういう、言うならお粗末ご無礼というようなものをお作りにならないことに、もう、絞りきっておられたということ。
私どもは一生懸命、そういう、金光様のお在られ方に神習わせて頂きたい。今日も金光様、貴方の御信心内容に少しでも(よさせて)頂いて、どうぞ、神習わせて下さい、と。もう、最近、そのことを真剣に願う。そうして、一日を振り返らせて頂いてから思わせて頂くこと。ね。
今申しますように、いわゆる、本当に金光様のご内容とは似ても似つかないような一日であることに、もう、驚いてしまう。第一、実意丁寧がない。ね。いわゆる、自慢がある、自慢をしておる、傲慢である。ね。同時に、もう、本当に怠慢であるということ。ね、そこんところをですね、もう、本当に、本気で一つ、改まらせて頂こう、と思うておかげを、まあ、頂いております。
皆さん、ひとつ、自慢心がね、出てから、まあ、出てもね、それが口に出ろうとする時には、一つ、はあ、こげな自慢やらはしちゃいかん。もう、こげな自慢心が自分の心の中にあると思わなきゃいけません。ね。それで、そこんところを改めて行かにゃいけません。ね。それには、やはり自分自身を本気に分からせてもろうて、どこに自慢する値打ちがあるか。同時に、私どもの心の中から、いよいよ、わがままと大着な心取り除かせて頂くことに一生懸命ならにゃいかん。
そこに、実意丁寧神信心がある。私どもの心の中から、ね、わがまま、大着。ね。先日、秋永嘉朗さんが朝の御祈念に参って来ておったが、また、しばらくしましたら、参って来ました。あらっ、アンタまだおったつねち私申しましたら、いいえ、もう、帰りよりました。田主丸の先の両地区橋のところまで帰っとった。ところが、その、しきりに心に引っかかることがある。まあ、よかよかと思うて行きよったばってん、どうも引っかかるから、またあれから引返してきて、帰って来た。
そして、このことをやっぱり御取次を頂いておかなければ、どうも先に進まれないという気がする。ね。そういう間は、おかげを落とさないです。ところがですね、そこに行けば、もう、よかよかちゅうごとなった時が危ない時です。ね。例えば、信心は、神様が有り難いと、神様が有り難いということが分かるということと同時に、神様はまた、恐い方じゃなと分からなければ、ほんなこっじゃないと言われております。
ほれは、本当にそうですよね。お粗末ご無礼が(舞って?)おる時なんか、内殿に入られんです、恐くて。そんな気が致します。ね。だから、有り難いということが分かることと同時に、また、恐い方じゃ、神様は恐いお方じゃということが分からなければ。ね。ところがです、その神様が有り難いことも恐いことも段々分かって来た人がです、ね、今度は恐くなって来るんです。もう、恐くないごとなってくる。
言うならば、慣れっこになって来る。ね。その慣れっこ、恐い神様をね、恐いことも何も無くなってきた時が、実は恐い時なんです。ね。この辺のところを、皆さんがよく分からせてもらわにゃん。神様は、ね、たしかに打てば響くような、いわば反響がある神様。ね。ですから、また打てば響くように、言うならお気付けも下さる神様。ね。ですから、そういう生きた神様であるということが分かりながらです、ね、こうすりゃ神様が喜びなさる。こげなことすりゃ神様が嫌いなさるということを分かっておりながらです、ね、初めの間は恐々しゅうて、初めの間は恐々ご無礼をする。はあ、ご無礼しよると、こう思いよる。
ところが、それがだんだん、日にちが経つにしたがってですね、それが恐く無くなってくる。もう、平気でやるようになる。ね。恐い神様が恐く無くなって来ることが、実は恐いこと。ね。それは、どういうようなことかと言うと、一番最後に慢心の自慢とか、ね、傲慢とかというのは、自分の心の中を検討して、ね。
はあ、これは、自慢は言うちゃならん、怠慢な態度やら、怠慢な言葉やら、ね、怠慢ではない、傲慢。ね。大着な風があってはならない。一生懸命、ひとつ心掛けさせてもらう。今日は、その一番最後の怠慢のところを、一つよく頂いて。ね。人間が怠慢になる。ね。
怠慢になって来るとです、恐いことが恐く無くなってくる。ね。平気でお粗末ご無礼を積み重ねる。さあ、十遍二十遍お粗末ご無礼が出けたからと言うてですね、その、いわゆる大怪我の元と仰る、その大怪我をなさると、大怪我ということはおかげを落とすということでしょうけれども。ね。おかげを取り上げなさるといったようなこともなかろうけれども。ね。それが積もり積もって、大怪我の元になる。
慢心の大怪我の元なり。ね。その慢心の中には、自慢、傲慢、怠慢。ね。特に、その怠慢というのが、怠慢無礼という。ね。神様を知りながら、神様を分かりながら、ね、そこんところを疎かにする。ね。三代金光様の御信心に伺わせてもらうところによるとですね、そういうようなところが、もう微塵も、もう、さらさら感じられなかったということですね。疎かになさらなかった。
そういうような御信心をですね、私は今、一生懸命神習わせて頂きたいと、神習わせて頂きたいとこう、どうぞ、金光様、今日も一日、貴方の御信心のご内容を頂かせて下さい。今日も、いわゆる、神習わせて、真似でもさせて下さい。まあ、そういう風に、私は祈っております。
それをね、祈らせて頂いておる時にはです、不思議にそういう祈りを持っておる時にはです、自慢も傲慢も、だんだん影を潜めてくる。ね。もちろん、怠慢もせんで済むおかげが受けられるけれども。そういう祈りを忘れてしまう。そして、つい自慢、傲慢、怠慢の(ご無礼?覚え?)をしてしまう。ね。
慢心は大怪我の元と、慢心が大怪我の元ですね、慢心が大怪我の元と、こう言う。ね。お互いが、その慢心の心が誰の心の中にでもある。もう、かさけのないもんと、慢心(がおる?)ない者はないと言われるくらいに、皆の心の中にある。そういう意味でです、やはり教祖様は、もう典型的なそういうような慢心毛のさらさらないお方であったというようなことが分からせて頂きます。
そこで、そういう教祖の在られ方にこちらに神習わせて頂く。ね。金光様の御信心は、教祖の神様が、ね、そういう実意丁寧神信心を貫かれた。そういう教祖の神様の御信心態度。それを、私どもの上に頂いて行こうというのが、金光様のご信心なんである。他のことでは何もない。何々様の真似をするとじゃない。ね。とにかく、私どもは金光教祖のいわば御信心を頂くのである。金光教祖の在られ方を私どもの生活の上に、私どもの生き方として頂いて行くというのが、それが、そのまま信心生活である。ね。
だから、このような場合、教祖様どういう生きられ方をなさったか。そこんところを追求して行くことである。ね。そこで、教祖様を先ず知らなければならない。その教祖様の御信心を、御教えによって、また、御伝記なんかを(しょうわ)させて頂いてから分からせて頂くのですけれども。その一番身近なのは、現御広前金光様でも同じこと。ね。一生懸命にそういう御信心にお取り組みになっておる御様子が、お参りする度に感じられる。ね。お互い、生活の現場においてということを仰っておられますね、実意丁寧をと、生活の現場にその実意丁寧を尽くして行こうと、こう仰っておられる。ね。
そういう意味での、一つ、いわば実意丁寧神信心の権化のように私どもが頂いて来た三代金光様の場合なんかは、もう、これは無類であった。ね。完璧という言葉があるが、完璧と言うなら、この方であろうと私だんも思うてきた。人はその、地上の太陽と称えた。ね。そういう金光様の、とても在られ方なんかに自分たちが真似の出来るはずはないと言うたら、もう、金光様の御信心はないのである。
だから、そういう御信心を自分の信心の上にです、もう、少し、一分ずつでも一厘ずつでも、貴方の信心のご内容、生きられ方のご内容をです、私の上に移させて下さい、頂かせて下さい。ね。それを願うことが、金光様の御信心なんだ。そこで、様々あります中に、今日はその私どもの心の中に、三代金光様、教祖様の内容には、そういうものが、さらさら微塵も感じられなかった。ね。
その素晴らしさに私どもはです、ね、金光様、どうぞ、貴方のご内容を頂かせて下さいと言うて願うのである。そこで、金光様がなされたという御信心ご修行の真似かたでもさせて頂いて、ね、金光様のご内容を自分の内容に頂いて行くということ。
とりわけ、その、私どもの心の中にある慢心。慢心が大怪我の元と仰るが、その慢心毛というものを私どもの心から取り除かせて頂くことに一生懸命になれば、ね、言うならば、お徳も受けられる、おかげも受けられるということになるのです。ね。
自慢毛をとらにゃいけません、傲慢毛をひとつ、払わにゃいけません。そして、怠慢な心というものを私どもの信心生活から除いて行かなければいけません。ね。そのことに一生懸命になること。とりわけ、ね、恐いと思うておる、(いう、まあ、恐いとも)、まあ、有り難いと言うてもいい。有り難いと思うておる神様。ね。やはり、親神様ですから、それは、父親の厳しさ、母親の優しさといったような内容を持っておられますよね。ですから、やっぱり有り難い面と恐い面があるわけなんです。
その恐い面であるところをです、恐いことは分かりながらです、こそこそと悪いことをする。初めの間は、はあ、すんませんちゅうような気持ちがあるけども、終いにはそれが平気になってくる。もう、心にもかからんようになって来る。ね。恐いことが恐く無くなってくるということが、実は恐いことだということです。ね。本当にあの、実意丁寧神信心。その内容としてですね、いわゆる、私どもの心から、ね、慢心を取り除かせて頂くところのおかげを頂かせてもろうたら、そこにあるのが、実意丁寧なのです。
実意丁寧。それが自分の身に付いてしまわなければ、染みこんでしまわなければ。金光教の信奉者全部が、ね、実意丁寧の生活、実意丁寧の神信心がです、日常生活の上に現れてくるおかげを頂かせて頂くことを願いとしなければならない。ね。そこに、いよいよ、金光大神のごひれいをです、お互いの現場、ね、持ち場に現して行くことが出けると私は思うのです。どうぞ。